怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

前々から計画していた武庫之荘へ。

関西に戻って3年半、武庫之荘を離れて6年になる。もっと早く行きたかったが、週休2日になるまではそれどころじゃなかったし、行くなら桜の季節にとも思ってたのでこんなに間が開いてしまった。

阪急で懐かしい武庫之荘駅に降りる。跨線橋はあまり馴染みがないし、昔帰りに籠って暗記に励んだ小さな待合室もないが、それでも懐かしい駅だ。いくつかの広告看板は見覚えがあるしセブンティーンアイスの自販機もまだある。かつての帰り道の通り、地下道をくぐって改札を出る。そういえばこの地下道は武庫之荘に住むようになってすぐ改修されたはずだ。駅前の風景はだいたい見覚えがあるが、いくつかの店は新しい。行ってみようと思いつつ行かずじまいだったカフェは閉店したらしい。通っていた散髪屋はまだ営業してるが、鳥小屋のあった屋敷はマンションになっている。クリーニング屋整骨院に変わっている。ご主人元気だといいな。

コープは改装されて様変わりしているし、あちこちが新しいが、それでも昔の記憶が蘇る。6年どころか10年以上も通ってない道があちこちにあり、もっと歩いたり自転車に乗ったりすべきだったなと今ごろ反省したりする。あの頃は楽しかったような気がする。今だって楽しいかもしれないが、後になって振り返れば反省しきりかもしれない。

住んでいたマンションを訪れると、もちろんオートロックが閉まっていて立ち入れない。今のような視点では当時暮らしていなかったので、あれこれが新鮮であったりもする。

そしてこの季節に訪れたかった理由である桜は、影も形もなかった。あの見事な鬱金の桜はどこにいったのか。あの頃、向かいのお宅には確かに鬱金桜が咲いて4月の半ばには花弁が積もったものだった。今はただ車庫があるばかりだ。老木で弱ったから切ったのか車を停めるために切ったのか。残念なことだ。あれほど美しい桜はなかった。そして裏の枝垂れ桜は、あるにはあるが見すぼらしい。花が散ったからなのかもしれないが、これも見事な桜だったから悲しくなる。去年なら見れただろうか。いつかは見れなくなるとしても、もう一度見たかった

そして残念なことがもう一つ、ダヴィンチの閉店。武庫之荘を去る前の数年間は、別の店に通ってて足が遠のいていたが、ゴージャスでホスピタリティのある、一軒家レストランだった。この店に来て初めて自分は贅沢をできる身分になったのだと実感したものだった。年齢や諸々の事情はあったのだろうが、最後にもう一度行きたかった。若いころの自分と妻の思いが詰まった場所はどんどん消えてゆく。それが歳をとるということなのだろう。

武庫之荘の前に住んでいた伊丹市のマンションも訪れた。住み始めたころは築3年の新しいものだったが、今はお年寄りが多く住む、安い共同住宅になっているようだ。昼間もしんとして、廊下を歩いてるだけで気が滅入る。駅から遠いし狭いし、新婚の妻には楽しい住まいではなかったかもしれないが、僕たちが住んでいたころの思い出と併せると、ここにいた時代はやはりいい時代だったなと思っている。

このあたりは、駅から遠いせいか、寂れた印象がある。建物は増えてるんだけどな。

パンオノアは元気に営業中だった。ここもたぶん開店から10年以上は経ってるだろうが、奥さんはあまり変わりないように見える。パンをいくつか買って、三井のテニスコート跡にできた公園で食べる。おいしい。やっぱりおいしい。大阪市内なら評判になり行列ものだろうが、この場所だからのんびりしたものだ。思わずもう少し買い足してしまった。

あとはぶらぶらあちこち歩くだけ。懐かしいというのがどういうことなのかわからないが、いろんな気持ちを痛切に感じた。

歩き疲れたが、来てよかった。もう少し早く来ればよかっただろうが、それでも今日が見納めになる店もいくつかはあるだろう。あの本屋とか喫茶店とか。色あせた看板ももっと色あせて、開店した日に目の当たりにしたあの店がぼろぼろになってたりするんだろう。

そうして僕の居場所はなくなっていくんだ。