怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

仕事を終えて急いで九条へ。シネヌーヴォへ駆け込む。寺山修司田園に死す」を見る。
福岡時代に県立図書館のところで短編映画はほとんど見たけれども、長編はこれが初めてのはず。普通逆だろう。気持ちでは「さらば箱舟」を見たいところだが、スケジュールの都合でこちらだけがやっと。1本でも見れるだけマシか。
この2018年の感覚で見ると、あらゆるところに古さと陳腐さを感じないわけにはいかないけれども、時折挟み込まれる寺山修司の短歌だけは永遠の新鮮な輝きがある。以前からずっと思ってきたことだけど、寺山修司の才能というのは、短歌にこそ現れていて、それ以外の雑文だのは余禄にすぎない。だから短歌だけやっていればよかったのかと言えばそういうわけでもないのだろう。
映画は寺山のいわゆる”自伝”であり、死んだ父、殺したい母、家出、その他おなじみのモチーフが散りばめられている。そこに現在の寺山自身が絡み、寺山が散文で描いたことが文章以上の説得力をもって綴られている。技法は拙いし、細かい部分、例えば短歌の文字表記など雑なところも多々ある。それでも、これは寺山修司が自分自身として表したいことを表せた、重要な作品だと思う。映画として良いかどうか悪いの問題ではない。
寺山作品を乱読した自分からすると ストーリーそのものには新鮮な感動はないのだが、ラストシーンにはかなり驚いた。過去の自分に戻って母を殺そうとした主人公が母の情に逆らえず夕餉を共にする場面で、壁が倒れセットが街頭にあることが明らかになる。母子は突然過去の青森から現代の東京に放り出されるが、何をやってるのかと興味津々に眺める通行人(おそらくエキストラではなく本物の通行人たちだろう)を一顧だにせず、ただ食事を続ける。見覚えある景色。カメラは夕餉の様子をゆっくり引きながら撮ってゆく。セットは新宿駅東北の歩道にあり、線路側から撮っている。向こうに見えるのはアルタビルなどがあるあたりだ。感情を秘めながら、母子は淡々と箸を進める。この場面がどういう意味を持つのか、おそらく言葉で表すことはできないだろう。過去と現在の重なりなどという陳腐なものを遥かに超えているのだから、言い換えれば意味などないのだ。だからこそこの場面は非常に重要で、見事な締めくくりだった。この場面を撮ることができた寺山は、やはり一個の異才だった。
一旦家に帰って夕食を食べてからレコード屋酒場にも行くつもりだったが、歩いた疲れもあり、その気力が足りず結局行かずじまい。歩いた疲れもあり、しかも雨だったのでおそらくお客さんは少ないなかで揺れるのは気持ちよかったろうけど、映画と掛けもちするのは、ましてや寺山と行松では相性が悪すぎる。今度にする。