怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

もう一人の自分

一橋文哉「宮崎勤事件 塗り潰されたシナリオ」読了。
昨日の夜遅くから読みはじめたのだが、読んでいるとだんだん気分が悪くなってくる。グロテスクな描写があるわけではない。ただただ、そこで示される宮崎勤の人物像がたまらないのだ。じっとりと、背後から、身体の中にしみこんでくるように。
あの事件は私が大学生のころだった。一人で旅行中、岡山駅宮崎勤逮捕のニュースを知った。関東での事件で身の回りに被害者と同年代の幼女がいなかったせいもあり、事件発生当時はそれほどの感想を持たなかった。
それがなぜ今も記憶し興味を持っているのか。それはとりもなおさず、宮崎勤の中に自分自身を見て取ったからだ。
自分は幼女に感心があるわけでは無く、またいわゆるオタクでもない。その意味で、自分は宮崎勤ではない。しかし宮崎勤事件の本質は、そんなところには無いはずだ。宮崎勤という犯罪者を形作ったのは、社会からの疎外感だ。妄執でそれが肥大し疎外感以外の人間らしい部分が食いつぶされてゆき、とうとうああいう形で社会問題になったのだ。もちろん、あそこまでになってしまう人間はそうそういるものではない。あくまでもあれは特殊なものだ。
だが、疎外感は多かれ少なかれ誰にでもあるものだし、自分の場合はそれが人一倍強い。また、いわゆるインテリには特に疎外感を強く持っている人間は多いだろう。その意味で、あの事件は決してオタクの犯罪でも無ければモンスターの犯罪でも無い。あれはいうなればパラレルワールドの、我々の、私の、姿なのだ。その認識を持たずに他人事のように宮崎やその親などを非難して済ませる輩は果たして知識人の名に値するのだろうか。