怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

花村萬月「二進法の犬」読了。

良質の娯楽小説だと言ってしまえばそれまでなのだろうが、しかし少しひっかかるところがあって手放しで賞められない。
作中、主人公の鷲津を中心に交わされるペダンティックな、おそらくニーチェに影響された会話は人物造型に深みを与えようという試みなのであろう。おおむね成功しているとは思う。
しかし、<たかが>娯楽小説に虚無だの人間とはだのという戯言をこれみよがしに持ち込む、中途半端なインテリ臭さがどうにも不愉快なのだ。
私も人並みにニーチェくらいは岩波で読んだし、ある程度惹かれもした。しかし、ヤクザと博打を舞台にした小説でそんなものを得々と語る花村は、作中の台詞にある「ロマンなどとほざくインテリ崩れ」そのものではないか。それとも、それはアウトローたり得ない花村の自嘲なのか。
同じく娯楽小説でペダンティックな会話が盛り込まれる京極夏彦にはそんなインテリ臭さは無い。彼自身も言っているように、京極には「通俗娯楽小説作家」としての矜持があるからかもしれない。
まずまずのインテリでアウトローに憧れそして意気地なしで生活力のない主人公鷲津は人物像としては興味深い。自己を投影させやすいのだ。しかし、読み進むにつれ、その投影もかすんでくる。結局鷲津も「超人」の一人なのだ。鷲津だけでなく、倫子も乾も中嶋も李も、みんなニーチェの言う「超人」なのだ。娯楽小説はそれでいい。しかし、それでは鷲津に自分を投影した読者の立場はなくなってしまう。
どうにも「臭い」のである。
最後、鷲津は自分の一部を失ってしまったことに、そしてその喪失感とともに生きなければならないことに気付く。書かれてはいないが、そう仕向けたのは乾だろう。乾は鷲津に愛憎半ばした感情を抱いている。そして倫子が李に仕向けたように、乾は鷲津を嵌めたのだろう。単純な憎悪ではないだけに、このシーンは素晴らしい。この締めくくりは賞賛に値すると思う。