怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

仕事をそそくさと終えて九条のシネヌーヴォへ飛び込む。間に合った。まあまあの入りでお客さんはおじさんがほとんど。そりゃそうだろうけど。
鈴木清順監督追悼特集のツィゴイネルワイゼンは何度も見ているだけあって展開をよく覚えているから余裕をもって見ていられる。おかげで小さなところも目がいく。お座敷の掛け軸とか。
この映画に解釈なんてものは不要だと思うし難解だとも思わないが、あえて言うならこの話は途中から青地の妄想にまみれ混沌としてくるのだと思う。密かに惹かれていた小稲を中砂に攫われたというところからスタートした青地の妄念は小稲そっくりの夫人との出来事を生み、それを中砂が気づいたという妄想、中砂が意趣返しに妻を抱いたという妄想、豊子は自分の子ではないかという妄想、中砂は生きているという妄想。その妄想はしまいに自ら死地に落ち込んでゆくところに行き着く。おそらくあの小舟のシーンは他者から見れば「麻薬のようなもので遊んでいるうちに事故で…」となるのだろう。そういう客観的な展開を省いて徹頭徹尾青地の歪んだ主観を描いている、ある意味わかりやすい映画だろうと思う。公開当時「わけがわからない」との評に鈴木清順が反発したのも当然だ。
破天荒な中砂に対する常識人の青地という登場時のキャラクターに惑わされがちだが、青地夫妻が聞いたという不思議な声を躍起になって否定する怖がりの中砂に対し、青地は案外平然としている。不思議がってはいるが、恐ろしがってはいないのだ。狐狸妖怪の類に拒否反応なく馴染んでしまう青地は自然に向こうの世界の声が聞こえ、そして最後には冥界に足を踏み入れてゆく。
僕たちは見ていて当然青地に感情移入していて、中砂をうらやましくも思ったりしつつも破天荒な知り合いとして見ているわけだが、だからこそこの冥界への一本道の迷路にすんなり馴染めてしまうのだろう。
いい映画だった。何度でも見る価値のある映画だ。
その後夜の松島新地をひとり歩くのはもってこいのエピローグだが、百福というタイ料理屋に入ったのでその気分は長くは続かなかった。
トムヤムラーメン美味しかった。こういうゆるい感じで営業してる店は好きだな。おいしかったし。