怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

お昼は弁当。いつもおかずはきちんとしてるのに、今日はしれっとうどん。弁当のおかずにうどんって初めて見た。斬新だ。
空腹をまぎらわしつつ急ぎ足で帰宅。かえってすぐナス田楽の夕食。
後片付けをして自転車で十三へ。思ったより早く20分余りで到着。かなり久しぶりに第七藝術劇場に。今日は森達也「FAKE」の上映で、平日にわざわざ来たのは男性1100円だから。雨さえ降らなければ無理ではないスケジュールだとわかった。

ここから先は映画の重要部分を含んでいます。

この「FAKE」、佐村河内守を撮ったドキュメントで、導入部からして異様な雰囲気を持っている。しかし自宅はごく普通の、あまりに平凡で生活感あるマンションだし、随所に佐村河内の人間くさいキャラクターをとらえ、夫人と猫との生活を押さえている。新垣隆の話になると努めて冷静であろうとする姿が怒りを示しているし、夫人とふたりで外出する場面ではリラックスした温和さが見える。それがマスクで変装した結果のつかの間の平和であるとしても。
彼の聴覚に異常があることは疑いない。聴覚異常を演じきっているようには見えないし、しかし若干程度の聴覚があることもわかる。この点で新垣の証言が偽りだったことは間違いないだろう。
小市民でクラシックおたくとも言える佐村河内は、音楽の話に身を乗り出し愛情たっぷりに語る。彼が交響曲を作曲しようとしたことは疑いのない事実だろう。それは画面に映される資料でもわかる。彼は世界観を構築しそれを音に落とし込む、壮大な構想でもって交響曲を作ろうとした。それを楽譜ではなく文字と記号で新垣に指示した。しかし断片的に見える指示書には「ケージ」「バッハのフーガ」などの文字が見える。彼の「作曲」は、彼が愛してやまないクラシックの引用で成り立っていることがわかる。オリジナリティがあるとすれば、ひとつは、根底の世界観。もうひとつは、新垣によってしか作れなかった部分にあるのではないか。佐村河内は外国誌のインタビューアーに「耳の聞こえないあなたは、あなたの指示どおりに新垣が作ったとどうやって確認できたのか」と質問され、言葉を失う。彼の不完全な聴覚で確認できる限りは確認したのだろうが、それ以上はどうだったろうか。その時点では夫人は作曲にかかわってはいない。自分の限られた聴覚で確認できる範囲で支障がなければ、それ以上は求めなかったのだとしたら、そこから先は彼の作曲と呼ぶべきだろうか。共同制作と彼は言うが、新垣にとっては代作であったとする見方も不自然ではない。
彼が言葉を失う場面はもうひとつある。クライマックスだと誰もが思いこんだ12分の場面のあと、彼は森達也の質問に言葉を失う。「うーん・・・」と考え込み、何も語れない。
佐村河内は正直な男だ。嘘はつけない。彼は彼の信じていることを誠実に語っている。自覚している限りではそこにFAKEはない。しかし、彼が目をそらしている部分にFAKEはないだろうか。そこにこの事件の真実があるのではないだろうか。
両論併記ではたどり着けなかった真実を、森達也はこの瞬間掘り起こしている。
鮮やかな幕切れ。
これぞドキュメンタリーという、見事な作品だった。