怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

TRANS ARTS TOKYOから内藤礼

なにかと忙しいがお昼にパスタを作ってもらい、といっても茹でたものに市販のソースをかけただけだけど。
TRANS ARTS TOKYO 2015へ。神がかっていた第1回に最終日滑り込みだったせいで心ゆくまで鑑賞できなかったのが今も心残りだし、第2回もいい展示だった。さて今回は会場も店舗内のものが多いようで、期待値はいまひとつ。それでも竹浪音羽さんの作品が見られる数少ない機会なので出かけないわけにはいかないし、昨日今日はアート縁日という催しで毒山さんのお面も買えるようだし。
とりあえずそのアート縁日、昼間だからか人出がなくてお祭り感はゼロ。出店というか作品もあまりぱっとしない。スカートめくりというクジだけ引いて、シールを当ててというか残念賞をもらって、毒山さんのお面はどうもピンと来なくて。やはり映像のほうが本領なのかな。
続いて竹浪さんの作品。お店が土日休みなので見られる部分は限られていて、あまり映えるような展示にはなっていない。お店が開けば光も入ったりして少し変わってくるのかも。平日に来るのはなかなか厳しいが、なんとかしよう。
そのほかの街中展示も見れるだけは見たが、これはと思えるものはなく、少々残念。ただまだ主な作品は手付かずなので、そちらを楽しみにしよう。
ついでというほど近くもないがギャラリー小柳へ。現在の展示は内藤礼「よろこびのほうが大きかったです」。内藤礼豊島美術館の衝撃的な良さに示される通り、ごくありきたりな風であるにもかかわらず、それがアートとして成立するなにか不思議なものを秘めている。この展示もその内藤礼らしさがフルに発揮された素晴らしいものだった。エレベーターを降りてまず目に入る輪。ややあってそれが風船であることがわかる。ただの半透明の風船だというのに、なぜかそれが特別なものだと感じられる。ただの風船でしかないのに。
さらに壁にはクシャクシャの皺がつけられた洋雑誌のグラビアページ。紐で吊るされたそれらは時にエアコンの風に揺れあるものは毛糸を身にまとっている。しかしそれがなぜか特別なものだということがわかる。誰でも雑誌のページを切り取ってクシャクシャにすることはできる。だが、違うのだ。何が違うのか。それがわからない。わからないが、これらが作品であるという事実は疑いようがない。間違いなく。
ほかに小さなひとも3点ほどと白い絵も数点。内藤礼以外の誰もが、こういったものを作品にすることはできないだろう。それほどに特別な存在だった。
名残惜しくもギャラリーを後にし職場へ。1時間ほど仕事。結構集中できてはかどる。
帰宅。