怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

そんなわけで今日は休み。
とはいえぐったりごろごろしていたらさすがに回復してきた。
妻に至っては朝から元気。なので昼から隣のタイ料理を食べに出た。食欲はまだ回復してないのでいっぱいいっぱいだが、香りの良さもあってかなんとか食べられてよかった。平日はさすがに空いてるが、それでも出てくるのに20分かかる丁寧さはさすがだ。
そして出張所へ住基カードを取りに行くが、e-taxに使うには結局市役所まで行かなければいけないらしく、馬鹿馬鹿しくなって中止。なんじゃそりゃ。
そこで体力を使い果たし、またごろごろ。夕食はニシン蕎麦とリンゴ。出雲蕎麦は太くて口当たりが悪いので、ざる蕎麦にはいいがかけ蕎麦には向かないと判明。

それはそうと、こんなのを見つけて暇に任せて少し考えた。というのも、論調に違和感を感じたからだ。
「岡田ぱみゅぱみゅ氏のハイコンテクスト論」
http://togetter.com/li/436248
言っている内容が間違っているというのではないが、ここでの論旨は会田氏の「「その世界のノリや約束事を理解しないと何も始まらない」というのは、エンタメも芸術も一緒。外部から入る時の抵抗感も一緒」という一言から始まっているためか、「現代美術を本当に楽しむにはある程度の学習ないしは基礎知識が必要でありそれを身につけた方がよい」というところに終始している。それ自体は間違いではない。ただ、それは現代美術の本質論というか、面白さ論とはまた違っている。
岡田ぱみゅぱみゅ氏がお笑いを例に出してわかりやすく解説しようとしているので僕もお笑いを例に出してみよう。
昔読んだ本にこういうくだりがあった。作者が上司と動物園に行くと檻の中のライオンがあまりに臭かったので「ライオンのくせに歯を磨いてないんでしょうね」と言ったら大受けした、と。
これがなぜ大受けしたのかを作者が解説していて、①ライオン→歯磨き、という連想 ②「くせに」とあたかもライオンが歯磨きしないのはけしからんかのような物言い。けしからんはずがないのに。 ③歯磨きをするライオンという可愛らしいイメージ の3点を短いフレーズに詰め込んでいるからであるとしている。全くその通り。
そして現代美術をお笑いに例えるならば、よくできた現代美術はよくできたお笑いに通じる。小石のような作品でありながら、それが展示室に置かれた途端、見るものにさまざまなことを考えさせる。作品がイメージを豊穣に連想させればさせるほど優れているのだ。2つより3つのイメージ、1分より5分のイメージ。それこそが現代美術の特性であり、一方作品自体があまりに語りすぎてはまさに「ジョークの解説」に堕してしまうというわけだ。
ところで例に出したジョークが通用するには、①ライオン歯磨きを知らなければならないし、②「くせに」からけしからんというニュアンスを感じ取れる国語力が必要だし、③歯磨きするライオンを可愛いと思う感覚が必要であり、それらが欠けている人、例えば日本人とは文化の大きく違う人に話してもさほど笑ってはくれないだろう。
現代美術も同様で、そうした共通の土台がある人たちの間では傑作であっても、そうでない人に見せれば鉄の塊でしかなかったりする。
では鉄の塊だと思った人に、いやライオン歯磨きというのがあるんですよというべきなのか。いやライオン歯磨きを知らないのは無知であって勉強してこいよということになるのか。
結局のところそれは日本人向けに笑わせようとしているお笑いなのか、リビア人向けに笑わせようとしているお笑いなのかということに尽きるのであって、日本人がリビア人向けの笑いがわからないから不勉強であるかといえばそうではない。主に欧米人向けに作られた現代美術がわからないからそれは理解度が足りないのかといえばそうではない。
現代美術がその特性上、説明が不足にも過剰にもならないようなギリギリのところを狙っている以上、本当の意味で作品を楽しめるのは少数に限られてしまい、多くの人が楽しむのはそもそも不可能なのだ。
そういう意味で、現代美術が隆盛を極めているのはそもそも無理があり、バブルでしかない。ただ、現代美術を「わかる」ことが知性を証明するものとしてステータスを保証しているという側面があるがために弾けにくいバブルなのだ、と。
まあそんなことを考えたのも、話がそちらに流れていけば、「ああ現代美術ってそういうものなのか」と目から鱗のひとも多いだろうなと思ったから。「美術」と名乗ってるけれど、いわゆる「美しい物」ではない理由がよくわかると思うのです。知識が云々というのも、それを作家が言ってはおしまいなのではなく、単なる種明かしなのですよ。種さえわかってしまえば、別にわざわざ勉強などしなくてもそれなりに楽しめるし、楽しめれば知識も自然とついてくる。
そういう話のほうがずっと役に立つだろうに、上から目線の講釈とはちともったいないですね。結果的には現代美術好きの自己満足程度に終わってしまって、一般層はダシに使われているだけのように思います。