怠惰な日々

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園子温「恋の罪」とはなにか

西中島でパチンコ店が開店らしく平日の昼間に長蛇の列。恥ずかしくないんだろうかと思う。中には木曜が休みの人もいるでしょうがね。と思ったら今度は弁当屋に行列。2時から半額という札があるのでそのためらしい。僕も半額は結構狙うが、行列かぁ。
夕食はホワイティの膳や。前回ひどかったが今日は少し値の張るやつにしたら大丈夫だろうと思っていたら酢豚を注文したら、豚肉と玉ねぎしか入ってない。そんな酢豚見たことがない。味もうまくないし、これなら小鉢が一番いいくらいだ。890円出してこれはない。以前はこんなことなかったのに、店の方針が変わったのか調理担当がひどいのか。少なくとももう夜は行かないことにしよう。
恋の罪を見に行く。知らない間に始まってもうすぐ終わろうかという頃に知り、ようやく。昨日か今日かで今日にしたのだが、ラッキーなことにシネ・リーブルは1000円の日だった。それでも満席どころか十数人しかいないのはなんかなあ。そんな入りでも上映してくれる映画館に感謝しなければ。
以下「恋の罪」の感想。未見の人がもし読んでいたらこの先は読まないでください。

エネルギーにあふれ、パワーに満ち、疾走感のある映画で、細かい整合性などはおかしなところもあるのだが、見ている間そんなことは感じさせない勢いが素晴らしい。なにしろ見ているうちに菊池いずみが堕ちていっていることさえ気にならなくなり、売春が悪いとも浮気が悪いとも思わなくなってしまうのだ。そう、それは正に後述するサドが叫んだことだ。あえてやっているベタな描写と力を入れて撮っている場面(例えば菊池由紀夫と尾沢美津子のセックスシーン終盤)の落差も効いている。主演の神楽坂恵は大根だが脇役の大方斐紗子町田マリーらが強烈な存在感を放ち画面を支配している。難を言うならば音楽への違和感だろうか。
タイトルはもちろんサドの小説からとったのだろう。恋の罪そのものとリンクしているわけではないが、借用できそうなタイトルがほかにないから選ばれただけでサド全般からの借用と考えるべきだろう。サドとの関連性は前述したモラルの否定だけでなく、エロスの不在も挙げるべきだろう。セックスシーンの連続ともいえるこの映画だがエロスに満ちているわけではない。尾沢美津子のセックスシーンにはもちろん全くない。売春は性的快楽のためにやっているわけではないから当然だ。菊池いずみの場合も同じくで、金で買わせるところまでいけば快楽などないのだ。
サドは、読めばわかるが登場人物が延々と性交を繰り返し殺人その他のインモラルな快楽にふける・・・と書かれているだけでエロスは全くない。機械的とすら言える行為と哲学的な言辞が交互に繰り返されるだけの実に退屈な代物だ。その非日常がルーティンと化す有様とこの映画の行きついたところはよく似ている。
退屈で幸せな日常から逃れ、苦しく不幸な非日常を追い求め、人格が消滅する領域にたどり着いたときにようやく安息を得られる菊池いずみ。幸せであるからこそ欲される破滅。この映画は男目線がどうだとか女の立位置だからなんだとかはつまらない小理屈だし、もっと言えばセックスに関する映画ですらない。SMが根本的にはセックスではないのと同じ理由で。
この映画は東電OL殺人事件とは全く関係がない。「冷たい熱帯魚」が愛犬家連続殺人事件と関係なかったように、それはあくまでも客を映画館に呼んでくるためのギミックにすぎず、この映画の本質は現代にサドをエンターテイメントとして蘇らせたところにある。