怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

枡野氏に端を発する(のかどうか正確には知らないが)実名匿名論争をそれなりに興味を持って読んでいる。
結論としては僕は枡野氏の意見に説得力を見なかったのだが、それはそれとしていくつか気になったところがあった。
ひとつは、実名は匿名より説得力があるのか、という論点。
僕自身からすると、説得力に差はない。というより、僕が読むのは文章であって、それを誰が書いているかは基本的に意に介さない。読んだ後で書いた人が誰であるか確認し、なるほどある種のバイアスがかかっていると感じたのはその立ち位置のせいかと思う程度である。そもそも、この映画が面白かったかどこがまずかったのか、それを実名で書いているから信用できますということはないし、同じ内容なら匿名でも同じことである。ただ、匿名より実名のほうがより批評性が高いということは一般論としてはあるだろう。これは批評家として自身の言に一般性を持たせようとするためだろう。匿名は一般性よりも個別の感想に近くなる。僕もそうだ。個人の感想だから、それが自分にとって有用であるか否かを判別する必要はあるし、逆に一般化されていない分より有用であったりもする。結局のところ、内容しか見る必要はないのだ。にもかかわらず、ある程度の人が「実名は匿名より説得力がある」という意見を絶対的な正であるかのように言うのは受け入れがたい。そのように思う人が存在するのは僕は理解しているが、彼らはそう思わない人が存在していることを理解していないからである。実際に存在する異論を認識するかしないかは、議論の根本として非常に重要だ。
もうひとつは、匿名とは何かという問題。実名と対比するならペンネームももちろん匿名であろうが、枡野氏の論点ではこれは匿名ではない。つまるところ、「実名」とは社会性を獲得した名前のことなのである。だから高名な筆名は「実名」であるし、無名な実名は匿名同然なのだ。
とすれば、例えばちくわ氏が匿名とされるか否かはその名前が社会性を獲得していないとみなされるからであって、有名になり社会性を獲得すればそれは「実名」である。
つまり、「実名」のリスクや有用性というのは、その背後にある社会性の問題である。僕のような市井の無名人にとって実名を出したところで社会的なメリットは皆無である。一方、非常に小さいがリスクは無いでもない。信頼性は内容次第だから変わらない。そうでないと感じる人にとっては匿名だから信頼性は小さいのだろうが、中身で判断しない人から信用されなくても問題ないし、よく考えたら僕は他人に役に立つようなことは書いていない。変わり者の独断と偏見であるから、これを有用と思う人は稀だろう。
論点として出てきた、「実名」と匿名が論争すると「実名」にリスクが高い、というのはまさにこの社会性の違いでしかない。「実名」は強い社会性を持っているから、議論でもし不利になると失うものが大きい、一方匿名は失うものが少ない。全くその通りだが、だから匿名が卑怯というのはあたらない。同じことは実名同士でも起こりうる。有名人と無名人が論争し、無名人にコテンパンにされたら有名人は失うものが大きいが、無名人はそうではない。実名同士であっても。「実名」側が言う「こちとら失うものが大きいのにそっちは少ない、卑怯だ」というのは、相手が匿名だからではなく無名だからである。そんなのどうしようもないでしょう。
それは議論になった時点で非対称なのであり、相手が匿名を選択しているからではない。
ネットの時代だから、有名人が無名人と論争することが起こるようになったのであり、あるいは有名人に対する無名人による批判が人目に触れるようになったのであり、20年前はそんな機会がなかった。それが手軽にできるようになり、多数目にすることができるようになった、それだけのことだ。無名が有名を批判することは昔からいくらでもあった。しかしそんな批判は、たまたま町角で耳にするのでもない限り本人が直接触れることはなかったが、今は本人がパソコンで検索して自分から見ようとしているだけのことだ。
匿名を卑怯と罵れば、無名人による批判は少し減るだろうが、それで何が変わるわけでもない。たとえ実名が義務付けられても、枡野氏が卑怯と感じる事象はこれからも起こるだろうし、それをなくすには枡野氏が無名になるしかないのである。
それからこれは論点ではないだろうが、枡野氏が再三「その反応が〜」というのは少々どうかね。反応すれば卑怯のレッテルが強固になる、だから黙って枡野氏の私見を読んでおけ。こういうレトリックを卑怯と言わずしてなんと言うのか。
もう一つ追加すると、これは枡野氏だけではないのだが、反論につまると「ああ匿名の人はそう思うのでしょうね」といった言葉で反論に代えてしまうこと。字面は丁寧だが、これはレッテル貼りでありただの悪罵である。この問題に関しては、「私はこう思う」「いや私は思わない」というところに尽きてしまうところがあって、枡野氏もそのように言っている。自分の意見をただ表明しているだけですと。それをあなたがそんなに敏感に反応するのは、と言うのである。ならば非枡野側が自分の感想をつぶやいたところで、枡野氏は別に反応する必要はないのである。ところが枡野氏は、相手が反応すると「そういう反応をするのはやましいところがあるからでしょうね」と決めつけるのに、自分に対する相手の言葉には悪罵をもって反応する。枡野氏の言葉をそのままあてはめれば、枡野氏こそが内面に傷を抱えていることにほかならない。枡野氏が認めたがらない敗北がそこに見て取れる。
以上、この日記の趣旨から大きく外れる独り言でした。日々の記録(買い物から感想まで)だから、まあ一応その日に(心の中で)したこととしてOKかもしれないけど。明日からはまたいつも通り日常生活を記録します。