怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

絶滅危惧・風景と古書店と雑感

お昼、たから亭。多分初めてだろう。今日は何となくジャンクな気分だったので入ったので、ジャンクなのは歓迎とはいえ、コストパフォーマンスは悪い。まあそういう気分の時には、という程度か。今日は唐揚を食べたが、魚系が充実している風なのは珍しい。
午後、結構長く揺れて気持ち悪かった。それはそれとして、収まった後テレビにかじりついて被害映像を楽しそうに見ている人にはなりたくないし、ツィッターでそれ系のことばっかり書いてる人にもなりたくない。むやみに自粛とかもしたくない。
終業後、大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室にて「絶滅危惧・風景」。6時前の入館で、1時間で大丈夫かな、時間足りなくて困ったりしないかと心配していたが、全然そんなことはなかった。展示の多くがワンアイディア、陳腐とは言わないがさほどそそられるものではない。最初の西尾美也は、昔撮った写真と同じ場所同じ衣装(複製)で写真を撮るというもので、場所と人間の変容が興味深いものの、わざわざ展示するほどのものではない。次の下道基行は、秋葉さんの作品が非常に興味深かった。チラシの裏に8文字熟語を筆で書いたものが圧巻で、「秋之食欲大試食会」「観光旭山市動物園」といった熟語とはつかないものから「終日秋雨孤独悶々」といった心情の透けて見えるものまで、さまざまな角度から示される人間像というスタイルが素晴らしい。しかもそれが市井の老人によるもので発表を企図されたものではないところがいい。これはアウトサイダー・アートではないか。原稿用紙にびっしりと万年筆で書かれた日々の雑感もそのボリュームが圧倒的。ただ、その他の日曜作品は全くどうでも良い。トーチカの作品は、制作過程のドキュメントが少し面白いが、作品そのものに褒めるところはない。藤浩志は、ほんと別に。最後のパラモデルは、良かったのは鯛よし百番で撮った旧作くらいのもので、銭湯などでの旧作をモザイク風に拡大展示したものは全くの不発、テーブルの上のインスタレーションに至ってはやっつけ仕事と言わざるを得ない。点在する四角いテーブルの上にそれらしいオブジェを並べるだけの作品を誰が褒めるというのか。それを並べるだけに終わらせない力技がパラモデルではないのか。がっかりして退出。あと、タイトル上仕方ないのかどうなのか、舞台が西成・新世界界隈に限定されていて同じ場所が何度も出てくるのも興ざめ。観光地かよ。
せっかく近くまで来たので農林会館のベルリンブックスへ。そう期待しているわけではなかったが、あにはからんや澁澤龍彦関連が豊作で、「幻想美術館」1500円、「ドラコニア・ワールド」700円、「幸福は永遠に女だけのものだ」400円。来てよかった。ただ店の女性、愛想良くしろとは言うつもりはないが、どこか口調が硬いのが気になる。
良いものを手に入れて嬉しい気持ちではあるが、ツィッターは震災関連情報やらコメントであふれかえっている。なかには、情報を伝える為に無駄な書き込みは止めてくれというものまである。それはそれで善意の現れなんだろう。しかし、だから書くなというのはどうなんだ。そこまで万人が同じことをしなければならないのか。誰かが苦しみ死ぬ瞬間に他の誰かは笑い生きる喜びを実感しているのが人生ではないのか。その理不尽さこそが現実ではないのか。
僕は自分がさほどの善人でないことは自覚しているし、弱者への共感も自ら努めない限りはそう強くない。空気も読めなくはないが読まない。そのうえ他人に悪く思われることも避けたい。
だから、そういう空気になっていると楽しい出来事やくだらない書き込みをするのは難しくなる。どこかの誰かにひどい奴だと思われてリムーブされるのは嫌だ。
だが、そう思っているのは僕だけなんだろうか。ほかの人もある程度は渋々沈黙したり、いい人だと思われたくて有益そうな情報をRTしたり、体面上どこかの誰かを心配するコメントを書き込んだりしているのではないか。
僕は昭和末期の自粛騒動が未だに嫌いだし腑に落ちないと思っているが、今また同じようなことが起こっているように思えてならない。歌舞音曲はやめようなんて、僕は思わない。もちろん無理なら止めるのは当然だが、白い目で見るなんて馬鹿げてる。