怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

午前中は金券ショップでDICのチケットをゲット。おぼろげながら前にもそこで見かけた気がするから、今後もそこに行けばありそう。いろいろ見て回ったが、東京の展覧会チケットがごく稀に売られていて、たぶん東京よりは安いだろうから今後も要チェック。行く時間ないけど。
お昼はもやし焼きそば。
そしていよいよシネマート心斎橋で牯嶺街少年殺人事件。
満席に近い混み具合で、世間の期待の高さが伺える。初公開のときは天神親不孝通りの地下の映画館で見たはずで、ここよりはずっと小さかったと思うのだがガラガラだった。映画マニアにしか知られてない台湾の監督の映画で3時間余りとなると入りが悪いのは当然で、そんなものを何本も上映し続けてくれたあの映画館には感謝してもし足りない。あそこのおかげで僕はいくつもの忘れられない映画に出会えた。
その後レンタルビデオは出たが、権利問題で揉めているとかでDVDは出ることがなく、もちろん再上映もなかった(数年後にあったようだが、僕は知らなかった。東京だけだったのかも)。その後は見る機会がないために伝説扱いもされていたようだ。
僕が怖かったのは、魔法のような数時間、痺れ呆けたような後味があのときの僕の勘違いで、実はそんなに大したことのないちょっといいだけの映画だったことがわかってしまうことだった。ごく少数の人にしか見られず、若い現代の批評家たちには触れられず、ただ追憶の中で語られてきた映画だったから。
だけど場内が暗くなりゆっくりと映画に沈んでいくと、そんなものが杞憂だったことがすぐにわかった。いや、心配なんか消え失せて、僕はあの暑い台北の夜にいた。A Brighter Summer Day。
人物の相関は今ではよくわかる。時代設定、背景の複雑さも今のほうがより深く理解できる。画面は少し明るくなり、暗闇の中でなにか蠢いていた夜襲のシーンはおおよその状況がわかった。そして、この映画が傑物であること、いつでも見られる映画であったとしたらもっと伝説的と言えるほどのものだったことがはっきりとわかった。ひりつくような日々の中にわずかに高まってゆく緊張感と不安。はさみ込まれる穏やかでささやかな幸福、希望。
不穏な空気は密度を増してゆき、それが避けられなくなるだろうと悟るその一瞬前に、すべてが失われる。すべてが。誰にとっても。決して避けられないわけではなかっただろうその結末は、しかし不可避に起こり、そして無機質な事件となってゆく。
誰かが誰かを殺したから眼が熱くなるのではない。実話を基にしているからでもない。それぞれが輝かしく生きていられたはずの日々はこんなにも脆くて、そうならなくてもよかったはずのことが紙一重で現実になることに僕は心を引きずられる。それは誰とどこですれ違うかという程度の、ほんのささやかな偶然の産物だ。
4時間弱という長さはまるで感じることがない。映画に呑み込まれてただひたすらスクリーンに向かっている。それがクーリンチェの4時間だ。
もちろん何度でも見たい映画だが、その一方でこの稀有な体験を日常にしてはいけないとも感じている。いつかこの映画が必要になったとき、それが何年後かはわからないが、そのときにこそ見るべきだと思った。
席を立つと喧騒が襲ってくる。ほんとうはただ暗いなか椅子に座っていたいが、そうはできない。残念だ。
一旦家に帰って食事してから阿波座のchef-d'œuvreでルイ・リロイさんと児玉真吏奈さんのライブ。
。それぞれのソロと最後にセッション。ルイ・リロイさんが珍しく歌ものやったり児玉さんが即興的な方向を出したり、それぞれのフィールドに歩み寄るようなライブだったのは異種格闘技戦ならではの面白さ。セッションでは意外な相性のよさもあった。どういうものになるのか、ツーマンを決めたときにはルイ・リロイさんにもわからなかったと思うが、そういうものに挑戦してゆく姿勢が好きだ。僕はそれぞれのライブを見たことがあったけど、どちらかしか知らないひともいただろうから、そうしたひとにどう映ったかも興味がある。
あと、スロベニアの作家Spela SKUijの写真展をやっていた。展示作品より心惹かれてしまった。切り取られたワンシーンとその色味はちょっと忘れがたく、今買わないともう巡り会いそうもないので買ってしまった。
それでも、家に帰って頭に浮かぶのはあの台湾の暑い夜だ。
ダブルヘッダーは辛いね。