怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

駅を出てベアーズへ向かう。
風邪は治ってきたが寒い。自販機で70円のUCCコーヒーを買い、お釣りの10円を溝に落とし、結果的には80円。
ベアーズの階段を降りるとそこには影野わかばさん。懐かしい光景、と言いたいところだがよく考えてみるとここでとかげさんのライブを見たことは多くない。ベアーズでのレコ発で初めて、とかげのわかばという何かの萌芽を持った存在を知り、その後また見に行って、もしかしたらそれくらいかもしれない。しかし、僕のなかでとかげのわかばといえばベアーズ、になったのは、その出会いのインパクトだけではなく、とかげのわかばが絞り出していたものがベアーズという場と分かち難いものだったからだと思う。
暖かいコーヒーを飲んでまずはセンテンスというユニット。
上手くはないというかはっきり下手だし、曲がいいわけでもない。ただそのもがいてるような何かは、塀の上をふらついているような危うさがあって、そこが気になった。
続いて恋村虚無子。ベアーズならでは、というかこの人ベアーズでしか見たことない。ウケたら終わりな芸風は瀬戸際感あって嫌いじゃない。
3番目が影野わかば。しかし曲目も演奏も、とかげのわかばを色濃く出したものだったと思う。
何年も飽かず練習を重ね格段の進化をした影野さんが当然に得た音楽面での変化とはまた別に、影野さんの環境が変化したことによる音楽への影響もおそらくあるのだろうと思う。それは移住だけではない。
今、とかげさんは影野わかばとして仲間に囲まれ、獏としてユニットでの活動も始め、以前にひとり物販席にいたころの面持ちとは違う、華やかさもまとう存在になっている。もちろんそれは影野さんのごく一部でしかないけれども、影野さんはそうありたくてそうなっているのだ。在りたい自分になれる。それは表現者の特権だ。もちろん簡単なことではないが。
だけどこの日の影野わかばは最近の影野わかばとは違った。
ぽつんとステージに座り、いつもにも増して孤独感をたたえたライブ。人影のない湖畔でギターだけを相棒に、いるのかいないのかわからない葉の影の幹の後ろの聴衆に歌っているような。
遠征・ツアーを重ねる影野さんはまるで旅芸人のようで、行く先々で暖かく迎えられつつもそれを振り捨てそこからまた旅に出てを繰り返す日々の孤独感がこのベアーズに満ちていたような気がする。そうした孤独感はおそらく影野さんのなかに潜みつつもこのところのライブではあまり見られなかったものだったが、それはかつて影野さんがまとっていた空気そのものだった。
僕はだいぶ後ろのほうから見ていたのだけれども、ステージの影野さんと客の間に重く黒い空間がはっきりと見えた。開いてるといってもたいした距離ではない。空いてるライブハウスなら当たり前のようにあるその半円形。だがその短い距離の確かな隔たりは、影野さんの音楽だけが越えることのできる、音楽でだけお客さんと影野さんがつながることのできるものだった。いや、もしかしたら影野さんの音楽がその隔たりを作り出していたのかもしれない。そして今日だけ、かつてのような孤独感がステージの前に湛えられたのは、やはりそこがベアーズだったからなのだろう。
以前のようなライブを望まれるというのはミュージシャンとして決してうれしい話ではないだろう。僕も影野さんが立ち止まることを望んでいるわけではない。ただ、今日のライブで見た姿は影野わかばの原点で、その原点は影野さんがこれから何年活動しても決して消えることのないもののはずだ。
そしてかつてここで見た原石を久しぶりに目の当たりにしたことで、最近新たに始めた獏としての活動がなぜか腑に落ちた。始まりがあって曲がり角があって坂道があって、終着はない。そんな旅の途中に獏もあるのだと思う。
最後はアナログエイジカルテット。久しぶりだが凄まじいライブで、なのになぜこんなに客席は空いてるのか、僕にはぜんぜんわからない。本人はもっとわからないだろう。まあそれがベアーズってことだろうか。熱気あふれる場所で見たいようでもああるが、冷んやりしたこの地下室で見るのが乙のようにも思う。