怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

冷たい熱帯魚という傑作

夜、「冷たい熱帯魚」を見に行く。その感想などを書くが、もし見てない人がこれを読んでたら、これから先は読まないようにしてください。

久しぶり、多分数年は来ていなかったシネ・リーブル梅田。昔はハイソな映画館だったはずで今も大して違わないのだが、シネコン隆盛の影響なのか少しくたびれた感じになった。
これを見に来たのは、TWITTERで松浦キノコさんが褒めていたからだ。特に、「安達哲さくらの唄に頭ぶん殴られた経験のある人なら」とあるのが決め手になった。こんな台詞、なかなか言えない。この人のいうことは信用できるなと思った。

始まってすぐ不安感が募り息苦しくなる。この息苦しさは弱まることなく映画が終わるまで続く。緩急とかそういうものはなく、胸を締め付けられながら2時間半見続けるのだ。
この映画を見る人はほぼ全員、社本に感情移入するはずだ。つまりその息苦しさは社本の息苦しさそのままなのだ。例えば冒頭の買い物シーンは社本が実際に見ている場面ではないが、見ていれば必ず観客と同じ息苦しさを感じるはずだし、それは日常生活の端々で感じているはずの息苦しさだ。それは映画が終わるまで、つまり社本が生きている間中続く。それが社本の人生だ。村田と出会っておかしくなったのではなく、息苦しい生活のなかで村田と出会い、息苦しさは増し、最後に解放されたのだ。そしてそれは観客全員の人生でもある。
この映画の鋭い指摘は、村田は社本だということだ。作中、村田や社本の過去が少しだけ語られる。村田は昔父に虐待されいじけた少年だったこと、社本は村田の子供時代に似ていること、どちらも前妻との子があり後妻は巨乳でエロスをまき散らしていること、村田の熱帯魚店は後妻のものだったこと、社本の店の魚の世話は意外にも後妻が熱心にしていること。社本は村田なのだ。社本が映画の後半で変貌するが、それは村田がかつてたどった道だ。つまり、観客は社本であり、ということは村田を別世界の住人のように見るわれわれ観客は実は村田なのだ。そして、観客は社本の人生の息苦しさから救われ、映画は終わる。これを「救いがない」なんて馬鹿なことを言ってはいけない。立派に救われてるじゃないか、あんたは。そうつぶやく園子温監督の後ろ姿が思い浮かぶ。これはそういう映画だ。

この映画は、多分人生で指折りの映画だと思う。クーリンチェ、追悼のざわめき、リンチ、フェイバリットに必ず入る作品だし、それがわからない奴とはつきあいたくない。
ただ、娘の造型にだけは疑問を呈しておく。餌やりのシーンで娘の残虐性は暗示されてはいるし父との相剋も確かにあるだろうが、ラストのあの反応は釈然としない。やや突飛な印象を受けた。また、自分の万引きを捕らえた村田にすぐになつくのもどうか。確かに家を出たかっただろうし村田は妙な魅力のある男だが、即座に媚を売り体を触られて嫌がらないのは娘の人物造型と反するだろう。

見終わって、席を立てなかった。立ちたくなかった。息苦しくない現実を見たくなかった。僕は外界と隔絶された異星人のように感じながら、ふらふらと駅に向かった。


追記:
この映画のモデルとなったという、埼玉愛犬家連続殺人事件はよく知らなかったので調べてみた。
印象的な台詞や店名、死体処理の方法、その他細部は実際の事件にかなり依っているようだ。一方で実際の事件と変えている部分もある。村田を飼育のプロとしては描いていないこと(むしろ後妻の熱帯魚店に入り込んだとしている)、社本を従業員とはしていないこと(村田の同業者としている)。細部を実際の事件に依拠しながら、そうした点を変更した理由は明らかだ。そうすることで社本と村田を相似形として描けるからだ。
この映画を、埼玉愛犬家連続殺人事件のセンセーショナルな映画化と捉えるのも、サスペンスとして捉えるのも間違っていることは、この事実からでもわかる。それはあくまでも観客、つまり社本であり村田である誰かを映画館に誘い込む為の仕掛けにすぎないのだ。