怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

今日は豊川座敷ソロの日なので、早めに出かける。途中、ブックオフ大友良英「blue」500円。安い。しかも割引券とTポイントで340円に。安い。「歌詞カードなし」と注意書きがあったが、あるわけないだろばーか、と心の中で言う。
焼飯を食べてビールを買ってベアーズに行くと階段の下に座敷くんがいた。「あとで聞きたいことがある」と言われる。こういうパターンはだいたいひどい目にあうのだ。
最初が真希。ノーコメント。次が北岡あいらぶろうストリート。横でずーっと座ってる女の人がいて、このまま客みたいに座ったまんまだったら面白いのにと思ったら最後はコーラスをやってた。残念。
三番目に豊川座敷。太陽になる(?)、見えない人、空は限りなく曇り、猫と僕、にごってる。最初の新曲、いい曲になりそう。見えない人は、「ぼくは/いつから/狂ってしまったのかな」のところで、首を絞める手に力をこめる映像が浮かぶ。単純に狂気を描いているのではなく、狂気のなかに少し残った正気が独白するところが僕を引きつける。自分の中にある狂気がぞわぞわと蠢く。アール・ブリュットもそうだけど、社会に生きて社会とはマッチせずにじっと飼い殺している自分の一部を刺激してくれることが自分にとっての音楽や芸術の価値なんだろうと思う。猫と僕のギターが秀逸だった。
最後が下山。初めてみたけど良かった。お客さんも下山目当ての人が多かったのかな。それも当然かと思うくらいよかった。また見たい。
終わった後、課題だったCD買った。座敷くんの聞きたいことってのは、追悼のざわめきのDVDを持ってないかという話だった。すいません。
追悼のざわめきを最後に見たのは、今確認したら3年半前のことだった。DVDが出たのはそのあとだったけど、当然のように買ってない。多分買わない。あれはそういうものじゃないんだ、と思ってる人は多分結構多いと思う。うまく説明できないが、あれは特別な空間で見るべきものなんじゃないかと。デビッド・リンチだと、好きだからDVD買って家で見たりもするし、それと何が違うのかというと、なんだろう。追悼のざわめきのほうがより深くより狭いところに入ってくるからだろうか。
帰って夜遅いけど座敷くんのCDをちょっと聞く。半年くらい前に聞いてすごくよかった「人形の気持ち」が入ってたのがうれしかった。