怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

記憶との舞踏

トイレに飾られていた花。追悼でありざ

お昼前に家を出たので京都に着いたのは1時前。少し新京極を歩いて昼食を思案しつつ上映会場の場所を確認。チラシを配っている。しかし今はちょうど上映の真っ最中で、たとえチラシをもらってその気になったところでなかなか見ようという気持ちにはなるまい。そもそも通りすがりの人でこの映画に興味を示す人がどれだけいることだろうか。
結局また新京極に戻り、ファーストキッチンでベーコンチーズエッグバーガーセット。忘れていたけど、ベーコンチーズエッグバーガーは決しておいしくはない。次はやめておこう。もし次まで憶えていれば。
ぶらぶらとビーバーレコードをのぞいてみたりする。陳列が劇的に見やすくなっている。前はやる気の無い古本屋レベルの酷さだったけれど、移転を機に心を入れ替えたのだろうか。今日は商品自体はこれといったものはない。ただ、掘り出し物の無いわけではない店だったから、今後に期待はできるかもしれない。
2時半過ぎに再び会場へ。階段から人がぞろぞろ降りてくる。取材なのか、カメラを持った人もうろうろしている。3階に上がってみるとまだ少し人が残っている。1200円払って中に入ると、入り口のところで白髪まじりで実直そうな人が立ち話をしている。もしかすると松井監督だろうか。話の相手は小人のお年寄りで、これはもしかすると映画の出演者なのだろうか。なにしろ前回見たのが約20年前なので、俳優さんの顔やストーリーはあまり憶えていない。記憶にあるのは天王寺公園のあたりで鳩を捕らえて首をもぎ取るシーン、マネキン人形と交接するシーン、あとは何があっただろうか。
会場のスクリーンはかなり小さくそのうえ高いところに設置されているので位置取りには思案したが結局真ん中より少し前あたりに決定。客数は40人くらいだろうか。思ったより多いような、会場の規模の割には少ないような。でも20年前はだだっぴろい(一応日活ですし)映画館に数人であったことを思えば多いと言っても差し支えないだろう。
記憶している場面は少ないものの、しかし大まかな印象という点では随分憶えていたものだと驚く。醜さと欲望が純粋さと美しさを映し出し、おぞましくもあり、また魅惑的な世界を提示している。良い映画とは言葉で語れない映画だと言ったのは誰だったか、もしかすると自分かもしれないが、この映画はまさにそれに属する。名作かと言えば違うしおすすめかと言えばそんなことはない。しかし、他のどの映画とも違う、何か大切で厄介なものを心の中に、言葉の手の届かないところに残してゆく、そんな映画だということは断言できる。
記憶から遠ざかってしまったころにもう一度この映画を見ることが出来たのは幸運だった。20年後、もし私が生きていて上映会がどこかで開かれるのなら、ぜひ三たび見たい映画だ。
そのときにはおそらく松井監督も、小人役の女優さんも会場には来ていないだろうけれども。
会場を出ると5時半すぎとはいえまだ明るい。前回は夜の中洲のネオンの下をパンフレットを片手に呆然と歩いたものだった。この映画、追悼のざわめきにはそんなエピローグが良く似合う。